古美術覚え書き「古萩」④[2019/12/06]
この楽焼修業により、萩における三輪家の位置が確立されました。そのことを示す資料として、「長州楽焼師 三輪勘七」と書かれた箱書きがあり、三輪家は楽焼御用の家となったと思われます。さらに四代三輪休雪も同じく楽家に修業に行っており、長州楽焼師としての活動がうかがえます。
しかし不思議なのが、三輪休雪作の楽焼は現存数があまりに少なく、茶碗そして、楽焼の釉薬が施された置物は数えるほどしかありません。古萩は箱書きがないものがほとんどですから、おそらく長い歴史の中で、人知れず廃棄されてしまったのでしょう。惜しいことです。
江戸後期になると、三輪家は置物づくりに頭角をあらわすことになります。三輪家の置物の特徴として、造形の確かさがまず挙げられます。
例えば、人物を模した置物でいえば、まず顔に表情があり、額のしわ、開いた口からのぞく歯と舌、頬の動きといった顔の表情が非常にリアルに作られており、他にも衣服の衣文線、獅子の置物であれば筋肉の表現などが見られます。
三輪窯の置物には総じてしまりがあり、細部にわたって手抜かりのない仕事振りが見てとれます。また土の配合や練り具合も研究し尽くされていて、この福禄寿置物のような大きい作例であっても、焼成中に歪みを生じさせずに、造形を保ったまましっかりと焼きあがっています。
これらのような置物は、萩やその周辺の町に残っている旧家の床の間に飾られていることがあります。そのため、古萩茶碗でも触れましたが、置物もやはりキズがあるものがほとんどです。上画像の寿老置物は無傷ですが、このようなものは非常に稀であり、キズや直しがあるものは、その場所と数によって評価が変動します。具体的には、顔やその周辺のキズは評価を大きく下げ、また手や足などの重要な部位が欠けたものも評価が下がってしまうのです。
3.坂家、三輪家以外の古萩について
余談として、坂、三輪以外の萩焼について紹介します。ここに挙げる陶工は、知る人ぞ知る名工として伝えられたものです。
『井上武兵衛』井上武兵衛は本来陶工ではなく、武家であり長州藩士です。その初代「井上武兵衛親明」は享保五年に絵図方頭人として役職についており、余技として「土偶」を作ることが巧みであったと伝えられています。
祖母の話では、土偶とは、窯を用いず地面に穴を掘り、そこに置物をいれて焼いたものであり、これを「土偶焼」と称していたといいますが、これは伝え聞いたものであり資料がなく、確実であると言えません。
しかし井上武兵衛銘のある置物の中に、明らかに一般的な古萩置物と異なる焼きの置物があり、それは祖母の言うように、製法の違いを感じさせるものがあります。井上武兵衛は親明のあと、代々武兵衛を名乗り、このあと明良、政知、親則と続きます。
この他にも名工でありながら、時代に埋もれた陶工がいますが、古萩の話はここでいったん締め、またいずれ、別の機会にでも語りたいと思います。