古美術覚え書き「萩ガラス」[2020/10/25]
かつて長州藩が、殖産振興の一環として、硝子製造に着手していたことをご存知でしょうか。幕末の硝子といえば「薩摩切り子」や「江戸切り子」などが有名ですが、万延元年(1860)に長州藩でも硝子製造が開始されています。今回はその「萩ガラス」の歴史をまとめてみたいと思います。
萩八丁南園(現在は自動車教習所となっているあたり)に、硝子製造所が築かれたのが万延元年(1860)。江戸より切り子職人西宮留次郎、そしてその弟子である長蔵を招いて、硝子製造は開始されました。
この初期に製造された硝子器は、鉛を多く含み、また水晶石と呼ばれる石英を砕いた粉、珪砂を原料としているために透明度が高く、他藩製品と比べても優品であったとされ、特に珍重されていたようです。
鉛を多く含むガラスは、現代では「クリスタルガラス」と呼ばれ、ワイングラスやシャンパングラスなどに用いられることの多い、高級品です。指で弾くと「キーン」という高く澄んだ音が鳴り、一般に壊れやすく、キズつきやすいといわれています。
これらの硝子は朝廷や公家への献上品、家臣への下賜品や他藩への贈答用品としても用いられていました。あの高杉晋作も萩ガラスを愛用していたようで、彼の遺品としてグラスが残されています(東行庵所蔵)。また製品の販売は町人の太田嘉七が行ったとあり、一般にも流通していたことがわかります。
文久3年(1863)、この頃からさらなる改良を加えた萩ガラスが生産されるようになりました。鉛を減らし、海藻灰汁(炭酸ナトリウム)などの配合を工夫して、透明度はそのままに、強度を高めることに念頭をおいた、改良型萩ガラスの誕生です。しかも鉛の含有量を抑えることで、コストの削減にも成功しています。
これは単に生産性の向上を目指しただけではなく、当時需要が高まっていた船用の板ガラス、明りとり用ガラスの生産を視野に入れた改良だったようです。
しかし順調に製造が続いていた慶應2年(1866)4月1日、夜中に発生した火災のために硝子製造所は全焼し、この後、同地で再建されたという記録もなく、同年5月、硝子製造は町人太田嘉七に申し渡されることとなりました。萩ガラスには型吹きによる粗悪な量産品もあり、これはこの時期に製造されていた可能性があります。火災が起こる前から製造所で作っていたものか、あるいは太田嘉七が質を落として、大衆に広く流通させようと考えたものかはわかりませんが、いずれにせよこれ以降、萩ガラスに関する記録は少なくなり、ついに歴史に埋もれることとなりました。
現在では萩市越ケ浜にある、有限会社「萩ガラス工房」が、その技術の復元に挑戦されています。こちらの工房でも日々、品質の良いガラスが生み出されていますので、萩にお越しの際は、ぜひ立寄ってみられることをおすすめします。