古美術覚え書き「古萩」①[2019/7/13]
山口県萩市という土地柄、当店でもっとも取り扱う機会が多いのが、地元の名産品萩焼になります。萩焼の歴史は古く、その祖をたどれば豊臣秀吉の文禄の役に遡ります。この戦で、朝鮮人陶工『李勺光』は虜となり、毛利輝元に預けられ、萩の松本の地で窯を開くことを命じられます。のちに李勺光は、弟を朝鮮半島より呼び寄せ、この弟の『李敬』が『坂高麗左衛門』に任じられ、現在でも続く萩焼の名門として名を残しています。(諸説あります)
一楽二萩三唐津と称されるように、萩焼は茶陶の名陶として有名で、多くの茶会でその器を目にする機会があります。有名なものでは十代、十一代三輪休雪の人間国宝のもの、坂高麗左衛門、坂倉新兵衛、田原陶兵衛などが特に好まれるようです。しかし、お茶人はもとより、お茶を嗜むことのない数寄者やコレクターの方たちが最も欲してやまないのが『古萩』と呼ばれる伝世の萩焼です。
古萩は希少価値が高く、また時代が味付けとなってなんともいえない風格があり、人によっては「古萩こそ萩焼の最上格」と主張されます。当店でも、よく「古萩はないか」と問い合わせを受けることがありますが、時代を経ているために残されている作品は少なく、運良く残っていても、キズがあるものがほとんどというのが常識です。
では『古萩』というものはどういうものか、このブログで少し解説していきたいと思います。
1.茶碗
萩焼といえば茶陶ですから、古萩においても最も格が高く、希少なのがお茶碗となります。
文禄・慶長の役は焼きもの戦争とも呼ばれ、多くの戦国大名が朝鮮人陶工を連れ帰ったことで有名となっています。なんのために連れ帰ったのか、それは自分の領地で陶磁器を焼かせるためでした。当時は茶の湯が流行しており、朝鮮半島で焼かれる『高麗焼』は茶人たちの憧れでした。わざわざ絵入りの文書を送って「こういう茶碗を作ってくれ」と注文するほどであり、そのために大名たちは陶工を欲したのです。
茶陶萩のスタートはここからになりますが、この時代のもののみをかつては古萩と称していました。つまり、坂高麗左衛門の初代から三代あたりまで(享保時代まで)に作られたものをいいます。しかしこれは江戸時代頃の考え方であって、時代が進み、昭和頃になると「古萩は江戸中期まで」とやや幅が広がります。現在でもこの考え方が主流となっています。
もっとも、人によっては「江戸後期までが古萩」と主張する方もいます。最近では、美術館において江戸末期のものも古萩として展示されていましたので、江戸時代のものであれば、古萩と呼んでも差し支えないのではないでしょうか。
……②へ続く。